我最初访问中国科学院古脊椎动物与古人类研究所的日子

私が中国科学院古脊椎動物與古人類研究所を最初に訪問した日々
Days of my first visit to the Institute of Vertebrate Paleontology and Paleoanthropology, Chinese Academy of Sciences
撰文及供图:河村善也 (日本愛知教育大学名誉教授)
Yoshinari Kawamura (Emeritus Professor, Aichi University of Education, Japan)
翻译:张颖奇
       まずは、中国科学院古脊椎動物與古人類研究所90周年おめでとうございます。
       さて、私は1983年5月23日に初めて北京首都空港に降り立った。それまでの私の外国調査旅行は、1980年と1981年にそれぞれ1回ずつ行ったケニアだけで、このときの中国が3回目であった。当時の私は30才で、愛知教育大学に就職して3年ほどしか経っていなかった。私の日本での化石研究にとって、中国はケニアよりずっと関係が深い。しかし、当時は日本から中国を訪れる人は今よりはるかに少なく、私の知っていた中国の情報も限られていたので、はじめての中国に興味津々で、わくわくしていたことを覚えている。このときの調査旅行は、日本の京都大学と中国の西北大学の地質学の研究者を中心に組織された中国黄土と日本の大阪層群を対比するという国際共同研究プロジェクトに、メンバーの一人として参加するということで実現した。私は哺乳類化石研究が担当で、北京では古脊椎動物與古人類研究所や周口店遺跡を訪問したいという希望を持っていた。
       当時の北京首都空港は、現在のものよりはるかに小さく、そこから北京中心部までの高速道路や鉄道はなく、幹に白いペンキが塗られたポプラが両側に植えられた畑の中の道を自動車で走っていくしかなかった。普通の道だから馬車や自転車も走っていて、車はそれほどスピードを出せるわけではなく、北京での宿舎であった友誼賓館まで2時間ほどかかったように思う。当時、外国人は友誼賓館のような特別な高級ホテルにしか泊まれず、外国人は人民元ではなく、外貨兌換券という特別の紙幣で、特別の店でしか買物ができなかった。
       翌日の5月24日には、周口店遺跡を見学した。現在は高速道路が整備されていて北京の中心部から半日で往復して見学が可能だが、当時は空港からの道路よりもっと整備されていない田舎道を自動車で走って行くしかなく、友誼賓館からは2時間以上かかってようやく遺跡に到着した。世界的に有名な遺跡で、古脊椎動物與古人類研究所のルーツでもあるこの遺跡を訪れる人は、交通不便のためか、当時は非常に少なく、図1のような遺跡案内の大きな看板のある駐車場には、ほとんど自動車は駐車していなかった。遺跡では、展覧館をじっくり見学し、野外では第1地点、第4地点、山頂洞などを見学し、また2時間以上かけて北京中心部に戻った。
図1 周口店遺跡入口にあった遺跡案内の大きな看板と筆者
周口店遗址入口处宽阔的遗址介绍墙和笔者
       5月25日と26日は、待望の古脊椎動物與古人類研究所を訪問した(図2)。当時の研究所は、現在のものよりはるかに小さい4階建のビルで、正面の門は現在の中国古動物館の入口付近にあったと思う。当時の記録から、私は事前に周明鎮先生に手紙を書いて訪問の連絡をしていたようである。と言うのは、私が京都大学の大学院生だったころに、日本を訪問された周明鎮先生と呉汝康先生を私が京都と奈良に案内したことがあり、周明鎮先生を知っていたからである。25日と26日とも周明鎮先生は西安に出かけておられて、不在だったが、いろいろ準備してくださっていたようで、研究所では円滑に研究活動を行うことができた。当時の研究所で唯一、日本語が話せる陸慶伍先生がいろいろお世話をしてくださった。私は李Chuan-kui先生の研究室で、私の主な研究テーマである小型哺乳類の化石標本を観察させてもらった(図3)。周口店産のハタネズミ類の化石でMicrotus, “Alticola”, “Evotomys”として記載されている標本や、ハリネズミ属(Erinaceus)の標本、泥河湾産の”Arvicola”として記載されている標本、四川省歌楽山産のハリネズミ属とモグラジネズミ属(Anourosorex)などである。李Chuan-kui先生からは中国産の第四紀小型哺乳類化石についていろいろ教えてもらった。それまでは、文献の記述でしか知らなかった中国産の化石について、実物を観察できたことや、それを研究してこられた李Chuan-kui先生から直接お話を聞くことができたことで、それまでの私の日本産の化石の研究や、これから調査に出かける中国黄土の化石研究を行う上で大きな刺激となり、大変勉強になった。

図2 1983年当時の古脊椎動物與古人類研究所の正門と筆者
1983年的古脊椎动物与古人类研究所正门和笔者
図3 李Chuan-kui先生の研究室での先生と筆者
 李传夔老师与笔者在他的办公室
       5月25日の空いた時間には、天安門から故宮博物院に行った(図4)。当時でも世界的な観光地であったのに、人はこの写真のように現在よりはるかに少なかった。北京市内は自動車も少なく、走っているのはほとんどがジープ?タイプの「北京」か、セダン?タイプの「上海」であった。また、夜は道路が暗い上に、自動車がライトをつけずに走っているには驚いた。
図4 天安門での筆者(中央)
 笔者在天安门(中间)
       5月25日と26日には、地質研究所も訪問した。われわれの調査旅行の主な目的が、中国黄土の研究だったからである。研究所には、中国黄土研究の第一人者で、かつては古脊椎動物與古人類研究所に所属し、上記の歌楽山の化石を研究した劉東生先生がおられた。研究所のビルの入り口に研究所のスタッフが集まってくれて、記念写真を撮った(図5)。この写真で何人かのスタッフが「人民服」を着ているが(季節がら上着をぬいでいる人も多い)、北京市内ではもっと多くの人が「人民服」を着用していたと思う。ファッションでも、現在との大きな違いを感じる。5月25日の夜には、この研究所のスタッフとの宴会があった(図6)。中国の方々は、強い酒をよく飲まれるのに驚いた。
図5 地質研究所のスタッフとの記念撮影(左から4番目が筆者)
 与地质研究所人员的纪念合影(左四为笔者)
図6 地質研究所のスタッフとの宴会(右から2番目が筆者)
 与地质研究所人员的晚宴(右二为笔者)
       われわれは、5月26日の夜に夜行列車で北京を出発し、5月27日に西安に到着し、西北大学などを訪問したあと、中国黄土の模式地とされていた陝西省洛川で、6月1日~5日に野外調査、6月7日に西安を夜行列車で出発し、6月9日と10日は南京の土壌研究所と地質古生物研究所を訪問し、6月12日に上海自然博物館を見学したあと、上海虹橋空港から日本へ帰国した。帰国後、古脊椎動物與古人類研究所の周明鎮先生、李Chuan-kui先生、陸慶伍先生にお礼の手紙を書いた。そのうち、李Chuan-kui先生あての礼状を図7として載せておく。
図7 李Chuan-kui先生にあてた礼状
写给李传夔老师的感谢信
       あの日々からすでに36年が経っているが、私の研究所との交流は現在も続いている。今後の研究所のますますの発展をお祈りしたい。
 
我最初访问中国科学院古脊椎动物与古人类研究所的日子
       首先,祝贺中国科学院古脊椎动物与古人类研究所成立90周年!
       我是在1983年5月23日第一次降落在北京首都机场的。在此之前,我只在1980年和1981年去过两次肯尼亚。这一次的中国之行,是我的第三次出国考察。当时我才30岁,在爱知教育大学就职才三年左右。对于我们日本的化石研究来说,与中国的关系比与肯尼亚的更为深远。然而,当时从日本来访中国的人要远少于现在,加上我对中国的情况的了解也非常有限,在我的记忆中,由于是首次来中国,内心充满了好奇,同时又有一些紧张。这次考察的缘由是日本京都大学与中国西北大学组织的以地质学科研究人员为中心的中国黄土与日本大阪群地层对比的国际合作研究项目。我就是作为成员之一参加此次考察的。我主要负责哺乳动物化石的研究。当时满怀希望在北京能够访问古脊椎动物与古人类研究所并参观周口店遗址。
       当时的北京首都机场与现在相比要小很多,而且从机场到市中心也没有高速和地铁,只能坐汽车穿梭于农田中,道路两旁还种着树干上涂着白石灰的杨树。因为只是普通的道路,所以马车、自行车都在路上,汽车根本跑不快。记得到达在北京下榻的友谊宾馆差不多花了两个小时。当时,外国人只能入住友谊宾馆那样的高级宾馆,而且不能使用人民币,只能使用被称为外币兑换券的特殊纸币在特殊的商店购物。
       翌日也就是5月24日,参观了周口店遗址。虽然现在高速公路很完备,从市中心来回只用半天时间就可以,但当时的道路还不如机场到市中心的道路完备,汽车只能走乡间小道,从友谊宾馆花了两个多小时才到达遗址。虽然是世界闻名的遗址,也是古脊椎动物与古人类研究所的发源地,可能是交通不便的原因,当时来参观的人非常之少。像图1中那样,停车场里竖立着宽阔的遗址简介墙,但基本上没有停什么车。在遗址参观了展厅,又在野外考察了第1地点、第4地点和山顶洞,然后就又花了两个多小时返回了北京市中心。
       5月25日和26日,访问了期待中的古脊椎动物与古人类研究所(图2)。当时的研究所是比现在小很多的只有四层的旧楼,正面的大门应该是在现在的中国古动物馆的入口附近。根据当时的记录,我事先给周明镇老师写信联系了访问事宜。之所以这样做,是因为当我还在京都大学研究生院读研究生的时候,周明镇老师和吴汝康老师到日本访问交流,是我带领两位老师游览了京都和奈良,因此已经认识了周明镇先生。25日和26日周明镇先生去了西安,不在研究所,但由于事先已经安排好了各种事情,所以顺利完成了在研究所的各项研究活动。当时研究所唯一会讲日文的陆庆伍老师为我张罗了各种事情。我的研究方向是小哺乳动物,在李传夔老师的办公室观察了周口店出土的以Microtus、“Alticola”、“Evotomys”为属名记载的?类化石,刺猬属(Erinaceus)的标本,泥河湾出土的以“Arvicola”为属名记载的标本,四川歌乐山出土的刺猬属和微尾鼩属(Anourosorex)的标本等等。李传夔老师为我介绍了中国产第四纪小哺乳动物化石的情况。之前只是通过文献记载一知半解的中国化石,这次可以观察实物,并与研究小哺乳动物化石的李传夔老师面对面讨论,对我此前对日本化石的研究以及马上要进行的中国黄土的化石研究,都是巨大的鼓舞,受益匪浅。
       5月25日的空闲时间,从天安门去了故宫博物院(图4)。在当时也算得上是世界闻名的旅游胜地,但就像这张照片一样,参观的游客要远远少于现在。北京市内的汽车也很少,路上跑的基本上要不就是吉普型的“北京”,要不就是轿车型的“上海”。此外,尽管晚上道路很暗,汽车却不开灯在路上跑,确实吓了一跳。
       5月25日和26日还访问了地质研究所。因为我们此行考察的主要目的是中国黄土的研究。在地质所,遇到了中国黄土研究第一人,且原先在古脊椎动物与古人类研究所任职期间研究了前述歌乐山化石的刘东生先生。在地质所大楼门前,研究所的人员聚集在一起,拍摄纪念照片(图5)。在这张照片里,有几个人穿着“人民服”(译者按:即中山装)(由于季节的关系,没有穿外套的人也很多),印象中在北京市内有更多的人穿着“人民服”。在服饰方面,感受到了与现在巨大的差异。5月25日的晚上,与地质所的人员一起吃了晚宴(图6)。中方人员喝高度酒的酒量让我感到吃惊。
       我们于5月26日晚乘火车从北京出发,5月27日到达西安,访问了西北大学等地。随后6月1日~5日,在中国黄土的典型剖面所在地陕西省洛川进行了野外考察。6月7日我们乘晚上的火车从西安出发,6月9日和10日访问了南京的土壤研究所和地质古生物研究所,6月12日参观了上海自然博物馆,随后从上海虹桥机场乘飞机回国。回国之后,给古脊椎动物与古人类研究所的周明镇老师、李传夔老师、陆庆伍老师写了感谢信。图7就是写给李传夔老师的感谢信。
       从那些日子到现在已经过去36年了,我与古脊椎所的交流现在仍在持续中。祝愿研究所今后能够取得更大的发展!
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